愛用教則ビデオ

最近手に入れた中で一番「うひょい」となった教則ビデオを紹介。

DVD>フィル・インの常套句 ジャズ・ドラミング編 (<DVD>)

DVD>フィル・インの常套句 ジャズ・ドラミング編 ()

岩瀬立飛。教則ビデオなのに、詳しい技術の解説など一切無くて、ほとんど演奏しているだけという、日本ではなかなか珍しい形である。
今加入しているビッグバンドは半分くらいジャズをやるので、ジャズドラムなんぞほとんどやったことの無かった僕は、とりあえず目指すべきモデルを探すことにした。ドラムに限らず、凄くカッコいい、触れていて気持ち好い人をとりあえず目指すのが一番の僕の推進力になるからだ。で、少なくともCD等で聴いている限りはかなり僕の好きなドラマーだった岩瀬立飛の演奏を体感したくて買ったわけだ。
初めて視聴した時から、演奏の虜になった。偶発性と必然性を持ち合わせたセンスあるフレージング、時折前記2要素のバランスを意図的に崩すアプローチ、音量と音色の自在な操縦による豊かなストーリー性。全てが時間軸と空間軸で相乗効果を生み出し、観ている者の心のうねりからノりたい衝動を釣り上げる。パーカッシヴな演出によってのみ著しく大きなエネルギーを与えられ得る、特有の衝動だ。
偶発性は、他者との「その」共演の中でのアドリヴによってのみ「その」フレーズと出会えたという事実性で獲得され、必然性は、アドリヴであるにも関わらずそのフレーズが全体の中で担う部分が確固として存在し且つそれが必要不可欠であると受け手に感じさせるという事実性によって獲得される。
そして、これらのバランス。偶発性に重みを置くと、斬新さを与える。必然性に重みを置くと、ベタさを与える。この二要素を自在に操ることで、それらの斬新さ、ベタさが、全体に対応付けた場合にそれぞれ意図的な斬新さ、意図的なベタさであることを受け手に感じさせる。このコミュニケーションが、全体から見た各部分の偶発性や必然性を更に豊かにする。全体と部分の循環が起こる。
前述した「パーカッシヴな」衝動に関わるこの循環は、時間軸上の点の位置と、大まかな強弱と、周波域の大まかな高・中・低で「ほぼ」生み出される。このざっくり感が、この衝動の何よりも大きな特徴だ。が、ここに実際は、受け手の意識できない、細かい演出が加えられる。不可分に見えるものを、それこそざっくりと「ざっくりな領域が主なのだ」と言っておいて、後で「細かいところもあるのだ」というのはまさにマッチポンプのような議論に見えるかもしれないが、ざっくりな領域と、細かい領域との違いを敢えて分けて考えるのは結構面白い(というのが昔からの僕の持論)。その線がどこに引かれているかは受け手次第なのだが、それは受け手が頭の中でその感覚をどこまで再現できるかというところに関わる。
長くなるので詳しい話はまたいずれしたいが、例として、僕の大好きなケーキの話をしてみよう。特にフランス系の流れを引くケーキは、「食感」「味」「香り」の各要素についての、強弱と時間軸上の位置が、ざっくりとした演出を行う。最初にカリッとした生地を噛むと強いキャラメルの香りが拡がって、中のふんわりとしたムースを舌でゆるやかに溶かすと同時にまったりとした甘み、そしてやや遅れて鋭い酸味が口を支配し、そのままその感覚に浸ろうかと思った途端にそれらがスッと抜け、爽やかな洋酒の香りが後味をキレのあるものにしてくれる…といったような感覚だ(ケーキ食べたくなってきた)。以上の記述は、僕が受け手である場合の「ざっくり」な領域だ。僕が後で「あのケーキ美味かったな…」とヨダレを垂らしながらニヤけるとき、そのケーキはこのようなざっくりした属性に従って想起されている。受け手がそのケーキの感覚を思い出すのに必要充分な領域と言っていい。
これに対して、僕(受け手)の意識出来ない領域というのは、例えば最初のカリッとした生地は実は噛んだ時に複雑な効果を伴って崩れるのだとか、やや遅れてくる酸味の前に本当は一層甘みが強くなる瞬間があって、それがその後の酸味をより鮮烈に感じさせているのだとか、そういう、僕には後からその辺のことは思い出せないんだけど、そのケーキを食べた時に僕が感じた快感を生み出すのに実は必要だった演出が、「細かい」領域だ。ここで注意したいのは、「細かい演出」といっても、製作過程の履歴に関わる細かい話ではないということだ。実は生地には三種類のナッツが使われているとか、実は甘みを一瞬強くするためにナントカ地方の特別な砂糖を使っているとか、そういう話ではないのだ。ここではあくまで、受け手がその場で感じることが出来るあらゆる感覚という集合の中に2つの領域があるのだ、ということを考えたい。(演奏者、作り手として技を磨くというのは、「後で感じられない領域」をどんどん「意識できる領域」へ持って行き、そして細かい演出に関わる製作過程の履歴を勉強すると言うことであって、それが受け手としてのレベルと必ずしも関係があるわけではない。)
話を戻すと、シンバルの細かい音色変化や、タムの細かい音量コントロールは、僕が後で岩瀬立飛のプレイを思い出そうとしても、そんな細かいところまで覚えていない。でも、プレイを観た時にはそれらが僕の感覚を揺さぶるのに必要不可欠な要素となっているわけだ。そして、実際には、そういう細かい領域での演出が、最初に触れた偶発性や必然性の相互作用、部分と全体の循環を更に豊かなものにしているのだ。
このビデオの素晴らしいところは、音と映像を受け止めることによって、そのような、(受け手にとっての)2つの領域での演出が、意識的にしろ無意識的にしろ、全て意味を伴って行われていることに受け手が容易に気付くところにある。であるが故に、何度観ても、「うお、こんな技を使えば演出ができるのか!」と、受け手としても作り手としても興奮することによって、すぐさまビデオを切ってドラムを叩きに行きたくなるのだ。