返答。

以前のエントリ[http://d.hatena.ne.jp/yeyehill/20060123/p1]についてid:kamayanさんからご批判・激励を頂いた[http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060216#1140028977]。
そもそもこのエントリは、kamayanさんのような方からのお叱りを覚悟した上で書いたようなところがある。「闇」という言葉を使ってその辺の具体性をボヤかして、一連の事件とは直接関係の無さそうなことをつらつらと述べている。従ってそちらに焦点を絞って活動している方からすれば非常にまだるいものであるだろうと思う。それでも僕は当該のエントリでは、闇がどうのというよりもむしろ、そういう情報を知った人達がその情報をどのような形で消費するのかというところに焦点を絞って考えてみた。
僕がまず前提として言ったのは、「社会というのは闇がないと回らないのだ」とかいう諦めモード全開な主張ではなくて、今僕らが住んでる社会は残念ながら闇があって回ってしまっているのだということ。つまりkamayanさんの言葉に沿うならば今の日本は近代国家の態を成していないということ。あくまで現状認識として言及しただけで、これから目指すべき社会の話ではないし、「闇」が存在することを暗黙の内に諦めて思考停止に陥っているつもりは全くない。
そしてここは僕のエントリの中では重きを置いた部分じゃない。
そういう事実を認識してしまうと、割と多くの人が凹んでしまうんじゃないだろうか、というのが考えごとの出発点だ。僕ら世代には、そういう話に極めて疎かったり、それが遠い外国や映画の中だけの話だと思ったりしている人がとても多いという日頃の実感が背景にある。或いは知っていても、完全に自分の生活と切り離して単なる話題のネタとしてだけ消費する、というカタチになってしまうことも多い。前者のようなナイーブな人達が今回の事件で色んな情報に触れて日本社会の実態を微かにでも知った時、そこには結構大きな落胆があってしまうんじゃないだろうかと思うのだ。日本って実はまだこんな国だったのか、みたいな感じで。
でもそれじゃいけない、こういう社会は変えていかなければ、と思えること。目を閉じず耳を塞がずに現実を直視し、しかも自分の生活と切り離すことも無くこういうことについて考えること。そして行動すること。こういう力を与えてくれるものはなんだろうかと考えた時に、思想的教養がその一つなんじゃなかろうかと思い至った次第。
従って、「『闇』という言葉を使うな」というご批判に関しては、闇そのものについて考える時には念頭に置かせて頂きたいと思う。
あと、ご激励については有難く受け取らせて貰います。