アメリカのミス。

昨年から、丸激では「憲法シリーズ」と題して各方面の専門家や政治家を読んで改憲論議をおこなっている。それに伴って宮台真司は「プラットフォーム」の話をよくするようになった。主張の要旨はこんな感じだ。
今僕らが「今の様々な国内外の状況を踏まえた上で考えると、この問題についてはアメリカの方に従った方が国益になりそうだ」と思うこと自体が、実はアメリカが戦後長い間戦略的に築き上げてきたプラットフォームの上に僕らが乗ってしまっていることからくる戦術なのだ。それは安全保障のみならず、我々の人生観・ライフスタイルにまで及ぶ極めて根の深い問題だ。そろそろ僕らはそのプラットフォームそのものについても考えなけりゃいけない。それが戦略的思考だ。というもの。
天皇制から給食制度に至るまでが、アメリカによるそのプラットフォーム造りに関連するだろうことは想像に難くない。僕らは確かに、昔と比べると明らかに高い頻度でパンや肉を食いたくなる体になっている。考えれば考えるほど、狡猾で戦略的なやり方だと思う。
ところが最近のアメリカ牛肉騒動を見ていると、「食のリスクに対する考え方」という、これからとても重要になってくるであろうプラットフォームに関わる事柄については、さすがのアメリカも気が回らなかったか、あるいはどうしようもなかったかのように思える。そのあわてっぷりは、明らかに一杯一杯であることを示している。
もともとモノを摂取するということには常にリスクが付きまとう。僕らが普段食べてるものだって、そのリスクを僕らがあまり知らないだけで、単に民族的な経験則に基づいてそれを引き続き摂取しているだけだ。数え切れないほどの食べ物全てについて、リスクの無さ、あるいはリスクの十分な小ささが証明されてるわけでもない。要は統計データ的なものから判断しているだけだ。その点で見るならば、BSEによるリスクというのは、SRM除去さえ行われていればもはやほとんど気にしなくてもいい位に小さくなっている。しかも、異常プリオンを少し摂取したからといって100%死が待っているというわけでもない。
にもかかわらずわざわざ月齢20ヶ月以下の牛に限定され、しかもその若い牛の危険部位を除去するという意味のわからないことをさせられることに、アメリカは相当不満を持っているハズだ。
今回の輸入停止問題でアメリカがえらく低姿勢なのは、安井至も指摘するようにそれが「契約違反」だったからであり[http://www.yasuienv.net/BeefSpine.htm]、今回のような不手際が起こったのもアメリカがそういう社会で成り立ってるからだ。「えらく理不尽な要求をする顧客だが、契約は契約だ」というだけだ。一般のアメリカ人は「違反があったのならせいぜいその業者からの輸入を停止すればいいだけの話なのに、なんで全面禁止なんだ?」と思ってるだろう。尤も、アメリカが「理不尽な要求を押し付ける悪者」でないと都合が悪い日本の一部マスコミは頑張ってアメリカが高圧的であるような雰囲気を出そうと必死だが[http://blog.livedoor.jp/y0780121/archives/50053480.html]。
食のリスクに対する、全くもって科学的でない日本人の考え方は、おそらく多くのアメリカ人には絶対に理解されない。日本人の感覚は、アニミズムや伝統的価値観に基づく。日本では「有機野菜や天然ものを食べること」がいいことだと思われているし、それがなぜか常に地球環境にもやさしいと勘違いされる。食に対する思い入れの深さが、アメリカの比じゃない。
このような感覚のズレは、農業大国であるアメリカにとって結構大きな問題であるかもしれない。とかく科学よりも感覚に基づいてモノを食べる日本人からの、アメリカの食べ物に対するイメージが悪化するのは致命的だ。リスクに対する科学的な考え方を植え付けるべきだったとか思ってるんじゃないだろうか。もう遅いけど。
少なくとも今のままじゃどうにもならない。両社会の基盤に関わるところがズレてしまってるのだから。ひょっとしたら消費税増税よりも内閣支持率が低下するかもしれないという危険を承知の上で、どうしても輸入したいというのなら、どっかでなんとかして誤魔化すしかない。得意技。
まあ、もともと牛肉くらい国内産でまかなっとけ、という話だ。