現実の向こう作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2005/01/01メディア: 単行本 クリック: 11回この商品を含むブログ (28件) を見る

本書は、社会学者である著者の数回の講演をもとに加筆修正されたものである。憲法(およびそれを支えるべき憲法意思)の第一章、サブカルからの時代分析の第二章、オウム信者への提言の第三章という構成だ。
第一章では、9.11を契機とした対テロ戦争=「終わらない戦争」の真っ只中にありながら、我々が平和憲法を掲げてその理念の下で他者と連帯していくための思考が繰り広げられる。まず著者は、リチャード・ローティ(=洗練されたネオコン)への批判を思考の手がかりとする。ローティの戦略は、「屈辱」となり得るものの「非侵害」とそれ以外の「小さなもの」への「寛容」とで連帯する社会を目指すものだ。大澤は、このような戦略は他者の他者性すなわち不確実性に耐えられない人間の存在により、結果的に偶然性が排除され破綻するものなのだと主張する。結局これは、啓蒙主義的な「話せば分かる」という態度がそうであるのと同様に、偶然性からの逃走でしかない。しかも最終的にはこれは、他者の他者性に耐えられない人間の増加をももたらすというのである。
これらを踏まえた上で、著者は三つの提言をおこなう。一つ目は「国境線の開放と難民受け入れ態勢の整備による北朝鮮民主化促進」、二つ目は「自衛隊の縮小および援助隊・平和部隊の編成」である。だが、三つ目の提言が一番本質的であると思う。著者はそれを国連の安保理への提言だと付言しているが、それは民主主義そのものへの問いとそれを超えるものへの挑戦という意図が込められているからだ。
大澤は、現存の民主主義の本質は「アイロニカルな没入」であるとほぼ結論付けている。民主主義的討議や多数決は、到達する結論が偶有的であることを認識している点でアイロニカルであるが、結局は普遍的判断の存在可能性を想定せざるを得ない点で「没入」だというのである。そこで著者が訴えるのは、デリダによる他者についての思考を応用した形の、「偶有性を偶有性として引き受けつつも、参加者がその結果にコミットするような装置」の必要性である。そしてその上でやや複雑な意思決定様式が提案される。
確かによく考え込まれたものだと思うのだが、僕はこれを読んで素朴な疑問を持った。著者はこの部分に先立って、民主主義は偶有性の隠蔽が巧妙であると述べている。その通りだと思う。しかし、ではその巧妙な「現存の民主主義」から「民主主義以上の民主主義」へと移行するにはどうしたらよいのだろうか。民主主義以上の民主主義へと移行するまでは現存の民主主義だ。即ち民主主義以上の民主主義への移行は、現存の民主主義が機能しているうちに決定されざるを得ないのではない。巧妙に隠蔽された偶有性を敢えて露見させるような振る舞いを取らせるにはどうしたらいいのだろうか。
著者の出す例に即して言えばこうだ。日本が新しい安保理の方式を提案する。これが採用されれば、まさしく新たな民主主義のスタートとなり得る。そこでは、自己の部分的他者性を軸にした連帯がなされる素晴らしい社会の像が描かれている。ところが、ここで問題が浮上する。その提案を採用するかどうかをどうやって決めたらいいのだろう。あくまでそれが採用されるまではその決定方式は以前とした安保理の体制そのままだ。そこでの採用決定が必要なのだ。そのためには、没入している者の、没入からの開放が必須条件だ。問題はむしろ、ここにあるような気がする。
第二章では、著者自身がこれまで戦後から90年代半ば頃までの時代の変化を「理想の時代」から「虚構の時代」と整理してきたことを踏まえて、95年以降の新たな時代を「不可能性の時代」と命名する。この時代では、東浩紀の「動物化の時代」という言葉では言い表せない、「現実への逃避」という現象が顕著に見られるという。逃避先の現実は、出来事としては極めて非現実的なものでありながら、極端な痛みや破壊を伴うという意味では現実以上に直接的な現実である。それはすなわち、痛みの実存を、実存の痛みへと転換する試みであるというのが論旨だ。
さらに後半で大澤は、ドラマ『砂の器』の分析に多くの紙幅を割き、その「逃避」が何からの逃避であるのかを徹底的に明らかにしていく。すなわちそれは、著者が長年使用する用語でもある「第三者の審級」が喪失した現実からの逃避だ。裏返した形で第三者の審級を回復する「現実以上の現実」への逃避によって、その喪失を埋め合わせるのだ。
第三章のオウム信者への提言は、唯一書き下ろしの体裁をとっており、これまでの二章とはやや切り離された形に見える。しかしその内容はこれまでの話と極めて密接に関連している。虚構の時代の終わり、不可能性の時代の幕開けを告げることになったサリン事件を起こしたオウム。その信者たちへの提言によって、不可能性の時代で行き詰りつつある我々への処方箋のヒントともしたい、と大澤は言う。それは第一章で述べられた、自己の部分的他者性を軸にした連帯を目指す方向にあると思える。デリダを踏まえた議論だ。
しかし、僕らの未来は、そのような結局他者性に依拠した連帯としてしか描き得ないのだろうか。このあたりについてもう少し考えたいと思う。