ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス)作者: 檜垣立哉出版社/メーカー: 日本放送出版協会発売日: 2002/10メディア: 単行本購入: 5人 クリック: 83回この商品を含むブログ (41件) を見る

ドゥルーズによれば、世界は一種の未分化な卵であり、潜在的な多様性を持つものである。そこに溢れる未分化な力の働きに対し、それぞれが問題を設定することで、固有性を持つ個体が生成される。この生成は常に暫定的な解を出し続ける分割不可能な流れである。
ドゥルーズは流れの中に内在しながら俯瞰(=脱根拠的な世界へ自己投入)するという方法で、全てを記述していく。このように世界を、個体を捉えることで、何が見えてくるのか。
生成の結果としての<かたち>ではなく、世界における問題の設定こそが、ドゥルーズにとっては個体の生成の本質なのだ。更に言えば、そのような未決定性の表現の場としての個体の特異性を通してしか、それを生み出すシステムの価値は表現し得ない。こうして、ドゥルーズは個体を生み出すシステムの側から価値を負わせようとする議論を全て退けていく。ここからは、新しい倫理の形が引き出される。
これらの議論から、著者はドゥルーズの態度を「ポジティヴィスト」と表現する。世界が常に未決定性に満ち溢れていること、そして唯一絶対の解も無く、解は常に暫定的であることを、ドゥルーズはそっくりそのまま受け止めるからだ。そして新たな出会いに対して新たな問題を設定するという流れこそが本質であると見るのである。
この話は、例えば作曲の場にも適用することが出来る。世界は作曲者の心に、個体は個々のメロディーやフレーズに、対応づけ得る。作曲する際の僕らの心の中は、まさしく未決定な力がうごめく場面だ。そこから「問題」の「解」として「個体」が生み出されるが、それは常に暫定的なもので、「世界」の理念をよりよい形で表現する個体を求め続ける。仮に違う作曲者によって全く同じ個体(=メロディ)が産み出されたとしても、それは軟体動物の眼と脊椎動物の眼とが生物学的に全く異なる器官であるのと同様に、その裏にある本質としての問題・理念が同じということにはならないのだ。しかしだからといって、個々のメロディーが我々の心の世界の本質をちゃんと表現しているかという問いは有り得なく、それが音楽である以上、我々の心は個々のメロディーやフレーズを通してしか評価することが出来ない。つまり、分散している特異的なメロディーやフレーズがあることでしか、僕らは自分の音楽的な内発を表現できない。
ドゥルーズが問題の設定をまさに現場として表現するように、僕は作曲の場では「組み合わせ」を現場と見る。世界における問題の設定や固体の生成には無限の可能性があるのに対し、個々のメロディーは事実上有限といえる選択肢からの選択の結果であるので「組み合わせ」と表現して差し支えないと思う。
ドゥルーズの入門書を色々見回って買った本だが、本当に面白くて夢中になって何度も読み返した。もっとドゥルーズ関連の本を読んでみたいと心の底から思わせてくれる楽しい本だった。