ながら創作

好きな洋楽を聴いたりして自分の作った曲と比べてみるとメタな点での色々な違いに気がつくが、あちらはどうも作詞とVoメロディ作りを同時平行でやっていることが多いらしいということを踏まえると妙に合点がいく。
メロディを先に完成させる方法だと、どうしても「メロディ+演奏だけでもそれなりに完成度の高いもの」を作ってしまいがちだ。つまり綺麗で豊かなメロディを作ることが多い。それはそれで一つの曲としてはいいんだけど、どうも最近「メロディだけだとあんまカッコよくないけど詞が乗るとかっこよくなる曲」という可能性が排除されているような気がする。いや以前からそんな気はしてたけど、その排除された方にむしろ自分の理想のスタイルがあるんじゃないかという想いが最近どんどん大きくなってきているのだ。
鬼のような崩しラップを好むように、どちらかといえばノリと詞に重きを置く自分の音楽嗜好からすれば、「メロディに詞がのる」という現象は、その曲の全体的物語のとんでもなく大きな変節を伴うことが多い。故に作曲者として「Voメロディ+各パートの大まかアレンジ」を作るだけでは、自分がその曲でやりたいこと、表現したいことを不足なく込めたことにならないのではないか。むしろ明らかに「創りきれていない」のではないか。そう感じる。
もちろん、「メロディだけでもカッコよくて、しかも詞が乗るとなおカッコいい」という曲の製作可能性は、論理的には有る。しかしながら、自らの作曲力不足の所為もあるだろうが、結局は各要素の強度バランスがリスナーの印象を大きく左右すると思うのである。即ち自分が表現したいノリを最大限その曲に込められたなら、後の要素はできるだけ削りまくってやった方が、リスナーは心地よくそのノリを伝授するような気がするのだ。ここでいうリスナーとは要するに作曲者でない僕であるわけだが。
というわけで、次の曲では詞とメロディを同時進行で作っている。詞を作るのは初めてのことなので遅々として進まないが、非常に楽しい。対象とする範囲が自分が表現したいものを表現するために必要な最低限の範囲のものであることが良くわかる。
不思議なことに、メロディを作るときと同様、自転車や電車に乗っているとき、あるいは実験をしているときなどにふっといいものを思い浮かぶことが多い。事故ったりミスったりせんようにせんと。