絵から創る。

ダ・ヴィンチ10月号の中で、上橋菜穂子が「発想の核」となるものについて尋ねられて、『守り人』シリーズに触れながら

場面なんですよ。・・・場面に鳥肌が立つような気分になると、これは物語になるって思うんです。
<中略>
バルサが出てきたんです。いきなり。肩に槍担いで、自分の子でもない男の子の手を引っ張って。・・・いろんな経験を積んできたであろう、風雨にさらされた風貌。見るからにボロッボロの旅衣。そんな人間が自分が経験してきた限りを尽くして大きなものと対峙して切り抜けていく。そういうストーリーを書いてみたいという、最初はすごく単純な欲求で。

と言っていた。
そういえば、今年3月に放送されたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、宮崎駿の特集をやっていたんだけど、その中でも新作の構想を練る宮崎駿は、その行為を「脳みそに釣り糸を垂らす」と表現して、ひたすら自分が納得できる「絵」を実際に描いていた。何百枚もの没絵の後、あるポニョの絵を仕上げて、「よし」と言ってそこから具体的な映画制作に入ったのだ。
音楽を創るときもやっぱり同じようなもので、なんだかモヤっとした魚影のようなもの、創作意欲の原型が頭の中によぎる。ただそれは最初は音に出来るようなもんじゃなくて、実際に自分の意識下に置いて(釣り上げて)みるまでは「音楽」の範疇に入るものではない。そこで、釣り上げるために「音楽」側から糸を垂らして、その魚影を探る。宮崎駿が色や形や風景や構図や、果ては画材についてまで試行錯誤をしていたように、音楽でも実際に色んな音を鳴らしたり妄想を拡げたりする。
で、「よし」と言える「絵」を得たならばその「絵」に適うように具体的に曲を作っていくわけだ。ただし実際は僕のように拙いい人間が行うと釣り糸の影響で魚が変わってしまうことが多々ある。結果の曲だけを見れば判らないんだろうけど、それは実際に鳴らした音に引き摺られてしまったということで、原型を養う感性の貧弱さや貧困さを意味する。
また、この作業で使った音がそのままその作品の最終形にも残っているかというとそうでもなくて、それらの音は「原型」を「音楽」側へと釣り上げるために必要な「絵」を仕上げるためにだけ必要なものだったわけで、「絵」さえ出来上がれば曲の細かい部分の音は交換可能なのだ。
さて、音楽でのそういう「絵」というのは具体的にどんなものかと言うと、「ここであんな感じのドラムソロが入った後ベースがうねって入ってギターがパワーコードでドカーンと16ビートぽいサビに行って、終わったら段階的に転調していって突然8ビートになって、、」というような、曲の一部や全体について同一性を担保するものだけをなんとなくスっと表すような、それこそ言葉にすれば訳の判らんようなもんだ。
制作において、この「絵」を得る作業が最も辛いし消耗も激しい。しかも実際の釣りとは違って、「予想外の大物が釣れる」なんてもの(釣りでもプロならそんなこと無いんだろうけど)はまあ無いものだ。大抵の場合、得た「絵」は大きくても作り手の等身大の姿だったりするから、「絵」があまりにもショボいと、釣るのに必要な技術や経験の足りなさに帰属せず、なんて俺はショボイ人間なんだと暗い気分になったりするのだ。
上橋菜穂子の『守り人』シリーズは、確かに「絵」がある。上で言及されているようなところだけじゃなくて、そこに住むそれぞれの人たちが自分達の幸せを追いかけながら、苦しんだり悩んだりして生きている、そういう「生きた人」達が小さいながらも強く映った、壮大な世界を表した一枚の絵。文化人類学者として研究を重ねる中で、遺物から紡ぎ出される大きな物語としての歴史を調査しながらも、彼女はそれだけではなくそこに生きた名も無き人たちの日常にも思いを馳せていたんだろう。リアルなファンタジーだ。