課題図書。

教え子のH君が、推薦入試に合格した。これで、僕の家庭教師生活はほぼ終わったということになる。イレギュラーな指導依頼はもう少しあるけど、本格的に「面倒を見る」のはH君で最後だ。
大学一回生の頃から計20人以上の生徒を受け持ってきたけど、H君への対応はその中でもなかなか難しい方だった。これまでの生徒に対して使ってきた方法がうまく通用しなかった。内容の問題でもあるし、会話術の問題でもあったと思う。
相対化すればするほどどうしようもなく凡庸としか思えない自分と向き合い続けながら、それでも目先と将来の幸せを掴むために試行錯誤する。子供たちを出来るだけ早い時期にそういう生活へ送り出すためにのみ僕は家庭教師をしていた。即ちその時点での子供の幸福に対するイメージの相対化を促し、次に子供がその時点で持っている幸せ獲得に寄与する資質・能力を自覚させ、そしてこれからどう試行錯誤していくかについての思考を始めさせる。
高学歴の大学(院)生に家庭教師を依頼する家庭というのは、ポジティブな場合もあればネガティブな場合もあるけど、多かれ少なかれやはり「学業」に囚われている。僕は初回の授業から、あるいはその前段階の親との面談時から、徹底的に学業たるものの無意味さを説いてきた。親は「それを子供に言っちゃあおしまい」という反応が多かったし、子供は「薄々分かっていたけど考えないようにしていた」というのが殆どだった。この立ち入らない領域が、それぞれの事情で保存されたままなのは極めてまずいという問題意識を、僕はずっと持っていた。「あえて教えないように」「あえて考えないように」という方法は、現生活の保存という面では短期的には有効なのかもしれないけど、ますます流動性が高まるであろう社会でこれから生きて行こうとする若者に対して、知識と知恵を持つことでより濃密で楽しい生活を送るよう仕向けるべきだと僕は考えているのだ。
H君は、そういう意味で特に縛られているものはなかった。変わりに彼が持っていたのは、僕からすれば理解不可能なほどの深い諦めだった。宮台真司は『美しき少年の理由なき自殺』の中で、「意味は無いけど、そこそこ楽しい」「そこそこ楽しいけど、意味がない」という二つの異なる人生観によってこの本に登場する若者達を表現しているけど、H君は「意味も特に感じない」し今は「大して楽しくもない」上に、頑張ればより濃密に生きられるということもなんとなく分かってるけど「面倒くさい」。でもなんとなく生きるという、なんともうまく煽り難い気質を持っていた。
当然のことながら、「分かっている」という彼はその濃密さを一度も体験していないわけだから、僕のやり方としては「お前なんか分かったつもりになってるだけだ」ということを伝えるのが第一のアプローチになるわけだ。しかしながら、それをどう伝えたらいいものか。例えばそれなりの熱意で取り組んでいる趣味があれば、それを社会全体の小さなモデルとして色々と話をしたりも出来るのだけど、そういうものも持っていない。そんな彼が、その時点からいきなり自らの行動パターンを激変させるような、そんな会話術を僕は持っていない。
H君のそれは、面倒くさがりながらでもそこそこに生きていけるというこれまでの経験と、周りの皆もそんな風に面倒くさがりながらなんとなく生きているという観察結果に由来しているということになる。従って、濃密さを体験する契機を、ほんの軽い形ででもいいから提供するのが必要になる。
結局、僕が利用したのは推薦入試というイベントだった。面接で、僕ならこう言う、なぜなら僕がこういう経験をして来たから今があるわけだし、それは僕がその前にこういう経験が必要だと思ったからだ、ということをゆっくりと教える。端的なストーリーに作りすぎたかもしれないし、どこまでうまく伝わったのか分からないけど、結果を見る限りワリと上手く行った気がする。
おぼろげながらも大学に入ったらどんなことを学んだりどんな遊びをしたりということについて考えるようになったし、入学までの期間は本を読むと宣言した。今年の夏まで一冊も本をまともに読んだことの無かった男が。人生で唯一まともに読んだ本が、今年の9月くらいに僕が課題図書として与えた本であるような男が。びっくりだ。
というわけで、合格祝い兼卒業祝い兼入学祝いとして、ちゃんとしたプレゼントの他に本を二冊、課題図書として与えた。川上弘美の『センセイの鞄 (文春文庫)』と、富田恭彦の『哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)』。これらの本との出会いが、彼にとっていいものとなりますように。