続・教育論〜家庭教師として何をすべきか。

僕にとって家庭教師とは、矛盾を孕んだ、或る意味皮肉なアルバイトであるかもしれない。僕のような、世間一般で高学歴といわれる学生に家庭教師を頼む家庭は、殆どが子供のテストの点数を上げて欲しいという願いを持っている。しかしながらそもそも僕は余り子供に一生懸命勉強を教えたくない。特に受験まで一年半以上もの猶予がある生徒に対しては、勉強しろ勉強しろなどと言えるような立場でもないし、その必要も無いと考えている。
教育に関する僕の考えは以前の日記に書いたので、今回は当時書いたことの補足をしつつ、家庭教師が現場で何を出来るのかという点について考えてみたい。
今日の日本の一般的な教育システムは、よく「詰め込み」と評されてきた。これに対してはほぼ立場が二つに分かれていて、一方は「詰め込み教育では学問に対して子供が興味を得られない」という否定的立場であり、他方は「学問に限ったことではなく、詰め込みが一番の学習効果を上げられることは明白」という肯定的立場だ。そして、この二つの立場の論者が対立する構図がしばらく続いてきた。しかし、少し考えればこの二つの主張が決して二律背反でないどころか対立もしていないことに気付く。どちらも正しいことを言っているのである。詰め込み否定派は結局、子供が学問に興味を持つ機会を提供する場を求めているのであり、要するにこれをゆとり教育ではない別のツールで果たしてやればよいのである。そして詰め込み肯定派は、詰め込みを一番としながらも、では同じ詰め込むにしてもどういう状況で詰め込むのが一番効果が高いかということに言及していない。つまり、「詰め込み教育では学問に対して子供が興味を得られない」から、詰め込み教育をする前に子供に興味を持たせ(=動機付け)、しかる後に「高い学習効果が期待される詰め込み学習をする」のが良いのである。
ゆとり教育の本来の目的はそのような動機付けを与える場として経験的学習を盛り込むものであった。経験的学習とは、まず子供に身の回りのことに対して興味を持たせ、子供の興味の赴く方向に興味と知識と教養とを深めていってもらう学習法である。これに対し、教育者側の教えやすさと、論理的発展や歴史的展開の順序を重視したものを体系的学習という。当然教育に割かれる時間は有限であるために、経験的学習の時間を増やすことが体系的学習の時間を減らすことを意味し、これが学力低下を憂う立場の人間からの批判の的になっているが、この批判が全くの的外れであることは何度も言った通りである。ゆとり教育による格差の拡大を根拠にこれを批判する左翼の主張など聞くに値しないのも、前に書いた通り。
ゆとり教育は、以前書いたように現場の人間や機構が何も変わっていなかったために現段階で充分に機能を果たしているとはお世辞にも言い難いが、方向性は全く間違っていない。そして僕の感覚では、国の教育として保証すべき動機付け期間としては16〜17歳位までが相当なのではないかと思う(もちろんその後の人生でこれが覆ることも充分にありえるため、ここでリセット&リトライの観念が重要になってくる)。
つまり、僕が今受け持っている教え子達が全て僕の考える「動機付け期間」に含まれる訳である。となると話は簡単で、僕は家庭教師として、教え子達に学校では聞けないような様々な話をずっと聞かせて興味を持たせれば良いのかと短絡したくなる。ところが、ここに大きな壁が立ちはだかる。それは、もはや今の日本では殆どの子供達が避けて通ることの出来ない受験というイベント突破を見据えた、親からの成績向上という要求である。
受験は、本来の人材選別という目的は国による教育の最重要な要素の一つであるため、このシステムが絶対的に悪いわけではない。しかし、学歴社会と終身雇用制度がもたらしたものは、受験突破の過大目的化であり、そして学力向上による富獲得という共通認識が近年になって消失したことで、もはや親も子も何のために勉強させ勉強しているのかが分からないという状況に陥り、意欲低下・学力低下という現象が発生する。にも関わらず、高校進学率はもはや100%近くにまで上昇し、少子化も相まって大学進学率も年々増加しつつある。ここで危機感を持つ人間達が、学力向上若しくは維持を目指して、学校で延々と小課題を蓄積させる手法を取り入れ始める。朝夕の小テスト、定期テスト前のノート&ワーク提出、山のような宿題、等々である。あまりにも極小化された課題の蓄積は、勉学行動の維持には繋がるが、大局的な目的の喪失を誘発しやすい。これによって、以前書いたように学業がロール化する。そして本来人材選別が目的であったはずの受験も、失敗に対する恐怖感を維持したまま、しかし行為自体は小課題の一環と見なされロールとなる。
これが僕にとっては非常に厄介なものである。しかしながら当然、このシステムは僕如きがいくら頑張った所で一朝一夕に変えられるものではない。特に、前述の通り家庭教師を依頼する親御さんたちは多かれ少なかれそういう意識を持っていることが多い。これは、そういう世代の人たちが育った時代によるところが多いので、ある意味仕方の無いことである。そこで、では僕はその中でどうすべきか、という話になる。
受験に関しては、上記の通り大きな観点から見れば大いに不満のある体制ではあるものの、依然として選ぶ側からは人材選別という意味を担うものであるために、個別の生徒の観点からすれば行きたい場所に行くためにはこれを巧くクリアする以外に方法が無い。従って、最長で一年半というガリ勉期間を設けざるを得ない。そしてこのガリ勉期間を濃密なものとさせるのに必要なのが、強い動機なのである。経験したことのある人ならご存知だろうが、確固たる動機付けのもとで行われる詰め込み学習(学問以外でも)に臨む時の集中力とその効果は凄まじいものがある。本来ならばこれをその動機の対象となる分野の学習に充てたいところではあるが、この場合の受験という一段階の小課題は、それほど大局的目的を失わせるものではないだろう。実際、僕も経験済みである。そしてこの段階では、よほどの場合で無い限り家庭教師など必要ないし、必要にして欲しくない。
詰まるところ、現代日本の教育問題と同様、それまで如何にして動機付けの契機を確保すべきかという問題になるのだが、しかし依然として成績向上という要求が付きまとうわけだ。この要求を蹴ってクビになるのは実に簡単である。しかし何らかの縁で受け持つことになり、お互いの人生が交差しあったわけだ。何とかしてこの子の役に立ちたいと思う以上、そのように簡単に繋がりを断つことは僕の信念が許さない。
そこで僕がよく子供相手に持ち出す概念は「契約的学業」である。今「勉強しろ」と言う親は、仮に今までその子の成績が良かったとしたら、その成績が下降した時点で(この仮の成績が現実の成績より良かったとしても)同じことを言うだろうという前提の下、だったら期待値を操作しながら、勉強に費やす労力と、点数という結果をもうまく調整して、自分(生徒)と僕(家庭教師)に不都合にならない程度に親が文句を言う状況を作りつつ学生生活をエンジョイしろという考えだ。小テストや定期テストなど所詮は「小」課題である。もちろん人によって違うだろうが、勉強すれば勉強するだけ点を獲得でき、親からのお褒めの言葉を生徒も僕も調達できる。この、勉強する労力をコストA、親からの信頼低下をコストBと捉えて、両コストを調整するのだ。コストの和が最小になる地点が理想だが、コストBがある限界点を超えると僕がクビになったり生徒の自由が拘束されたりしてしまうので、そこを僕もうまく調整するわけである。ここでは絶妙な期待値操作が重要となってくる。こうして、「あなたの期待と比べてこういう結果をとるから、まあこれだけ文句を言ってください」と、「文句を言う親」と事実上契約を結ぶわけだ。もちろんいつもそんなにうまくいくわけではないが(そのために親との信頼関係も重要になる)。親の価値観を放置したままでは問題の解決にはならないのではないかという疑問がわきそうだが、動機付けの後自ら進んで勉強するようになれば、親は一転して基本的に何も言わなくなる。勉強しているから何も言わなくなるのではなく、今まで勉強させようとしていた行為がロールに基づくものだったために、これが子供の自発性により解消されると本来の「子の人生を見守る親」に変わりやすい。
その上で、将来のための動機付けの契機を得たり人生を楽しんだり教養を蓄積したりする。この時になって、家庭教師としての僕のモチベーションも最大限に向上する。僕が大学で学んできたことや、様々なメディアを通して知りえたこと、普段考えていることを伝えられ、時には生徒と議論できるからである。生徒の考えを知ったり、生徒と議論したりすることで僕の得るものも大きい。こんなことは、家庭教師やってなきゃなかなか味わえない。
だから、家庭教師は楽しい。