消極的議論。

今日の社研では引き続き「隷属への道」の第五章を読んでいたのだが、なんとなくハイエクの論法について或る印象を抱くようになった。それは、どうもハイエクの議論の進め方は、全体としても消極的な感じがするというものだ。これは彼が消極的な自由主義者であることと関係がある気がする。
五章の主題を並べると、「全体主義の要求する完璧な倫理的規範など存在しえない」「法律制定と違って経済活動は合意が難しく統制がとれない」「故に民主主義の下での計画経済は成り立たない」「民主主義は手段に過ぎない」などといった感じだが、これらは全部現状分析である上に部分消去の積み重ねなんではなかろうか。だから、ハイエクの議論に目を通していると、とても受け入れ易く感じると同時に、少し煮え切らないものが残るのだ。それともハイエクは、この後ろのどこかの部分で「これだ」と言うものを提示するのだろうか。先輩の話を聞いてるとどうもそれはなさそうな感じだったが。
ただ今日面白かったのは、今のところは名言はされていないものの、ハイエクの法律に対する考え。ハイエクは「個人の能力を生かすという意味での自由を最大限保障するもの」という認識の下で法律について語っている為に、それで法律を割りと積極的に捉えているんだけど、パっと見たときに自由主義者としての彼の姿から考えると違和感を感じそうになるのだ。だからここはハイエクについて考える時に必ず押さえておかなければいけないポイントの一つであるように思う。
そういう意味では、多かれ少なかれそれを越える範疇での法律を作り施行している今の国家は、ハイエクからすれば完全に批判の対象となるに違いない。民主主義が国家の統制を弱めるようになるという状況は、五章の最後で彼が言っていることそのものだ。更に言えば、現代では彼の忌避する「特別法」的なものに頼らなければ、彼が最も価値に重きを置く個人の自由を国家が担保できなくなったのではいだろうか。いやむしろ、できなくなった、と各個人が思うようになってしまったからこそ、民主的な手続きによってハイエクのいう法律ではない法律が成立してしまうのだろう。だから、単に「民主主義は自由を保障する手段の一つに過ぎない」と言われても、あまり現状を変えうるようなものにならない気がする。
これをどうやって変えるべきか、という点についての彼の議論はまだ見えない。続きに期待。