休憩。

ひとまず一仕事終わったので今日はゆったり過ごす。
久しぶりにゆっくりと読書する時間が出来たので「隷属への道」の八章を読んでいた。気になったところを抜粋。

そもそもどんな体制であれ、実際それに苦しむ人には正義に反すると思えるような不平等や、不当としか思えない欲求の挫折や、罪もない人を襲う不幸の打撃は、避けがたく存在するものである。だが、計画的に統制された社会でこのようなことが起こる場合、そこでの人々の反応は、誰のせいでも無くそれが起こる場合とは、はっきりと異なるだろう。・・・<中略>・・・競争社会においては、或る人がどの会社からも仕事を必要とされないとか、もっとよい職を与えられないとかいうことがあったとしても、それはその人に対する軽蔑を意味するものではないし、その人の人間的尊厳を傷つけるものでもない。・・・<中略>・・・人々は、誰をも例外なく襲う可能性のある苦しみには甘んじて耐えうるかもしれないが、そのような苦しみが当局の結果である場合には、それほど容易に受け止められるものではない。・・・<中略>・・・誰もが自分の運命に不満を持っているにしても、その運命が誰かの意図的な決定の結果だと思われるとき、不満はたとえようもなく大きくなることは避けられないだろう。

この辺の議論は、少なくとも現代の文脈に照らし合わせれば明らかに不十分だ。ハイエクはあくまで相対的に見て、統制社会における不平等に対する不満よりは自由競争の結果の不平等さに対する不満の方が小さいと言いたいのだろう。それはおそらく正しい。そして自由競争による「負け」も、決して人間的尊厳を傷つけるものではないと言う。ここで絶対的な小ささを持ち出すのがおかしいのだ。自由競争が進んだ結果、競争における「強さ」が人間的尊厳の一部として認識される社会が形成され得るのだ。人間的尊厳とて歴史的に不変なものではなく、文脈に応じて変化する。ギデンズなども指摘しているが、自由競争社会における相対的に小さな不満「でさえ」、人々を「惨めな意気消沈」に追いやり、社会的不安を増大させる。
さらに違和感を感じるのは、最初は体制の比較だったのが、いつのまにかさらに普遍化されて議論が進んでいるところだ。引用した最後の部分は、いくらなんでも話を広げすぎだ。最近はむしろ、人々は完全なる未規定な世界に生きることに不満を覚え、程度の差こそあれ大いなる他者にコントロールされ、そしてそのことに不満を持つ自分に満足するという生き方を望んでいるフシが見て取れる。これはもちろんハイエクがここで言いたいこととはズレるノだけど。
そもそも僕はまだハイエクの「計画化は結局はあらゆる統制を招く」という言い分には納得していない。もっとこの本を読み込んで、もっと深く考えたい。