ドラマー的な概括。

バンドの活動にひとまず区切りがついたのでそろそろこっちのブログを再開してみよう。半年以上間が空いたけど。
一年半の活動の中で、アコースティックで3回、バンドで9回のライブをやって来た訳だけど、今僕が到達している音楽観は、バンド加入を決意した頃に抱いていた予測とは少し違うものになっている。
バンドとしてのスタンスはともかくとして、僕自身はバンド活動だろうが個人的練習の蓄積だろうが、自分が最もカッコいいと思える絵を見せられるドラマーへの道を、他の活動とのバランスをとりながらゆっくりと進み続けるという主義で精進するつもりだったんだけど、今省察するに、活動中に立っていた見地がそれとはやや違うことに思い寄る。或いはやや緩いと言う方がしっくりくるか。
ライブ等を通して受け手に提示できる絵というのは、聴覚や視覚や触覚等で受容されて脳内で再構成されたものである訳で、そのことについては今も変わりない認識を持っているけど、どうも活動前の僕はそこに、「ライブでのパフォーマンス」として受容された感覚しか見出していなかったような気がするのだ。
少し回り道をしてみる。僕が在籍していたバンドを操舵するのは、ヴォーカルだ。このバンドは一回解散していて、僕の加入時のメンバーは彼だけだった。加入を決めた直後、ボーカルとの音楽的志向の隔たり具合を斟酌した僕は、いかにそれらを摺り合わせつつ互いに気持ちのいい音楽を作り、ライブで皆に味わってもらうかが、今後の活動における肝要な課題であり、且つ自らの活動に最も強い意味と享楽性とを付与する営みとなるという推測を立てていた。そうやって活動して行くのが自分の本意に適っていると思っていた。
そこにあるのはバンドとしてのパフォーマンスについての日常的な試行錯誤であり、「メンバーの合意を得ながら提示されていくパフォーマンス=音楽性」という認識が垣間見える。音楽性の発露としてのパフォーマンスを味わってもらおうという。そのためにメンバー全員がやっていて楽しい音楽性を作っていこうという。
ところがこうして振り返ってみると、ライブで提示していた音楽は明らかに「無限な音楽の可能性の中で、最高レベルに僕が気持ち良いと感じる絵」ではなかった。でもこれは活動が楽しくなかったということでは決して無い。視座が違う。バンド活動中の僕は、このバンドとしての絵を作り出すことにこそ楽しみを見出していたのだ。端的に言えば、「僕らしさ」を、音楽そのものとして表現するのではなく、このバンドらしい音楽を提示するアプローチ手法に反映させていたということだ。ボーカルの能力、性格、嗜好などをどのような音楽につなげていくか。どのような客を掴むべきか。そのためにどのような曲を作ればいいか。どのようなアレンジをすればいいか。最後までこのバンドに在籍しないことが自明な僕が、何とかこのバンドに残していけるものを―といえば聞こえが良すぎるが、それが同時に僕がこのバンド活動に見出していた最大の意味だったのだ。バンドに対してだけではなく、自分に対してもだ。それをもが音楽性となるということが判ったのだ。
結果としてはあまり大したことができなかったのが残念だけども、こういう新しい見地を意識するようになれたのが何よりだった。
さて、自由奔放な学生生活は今年度で終了なので、残りの時間はレコーディングをしまくって過ごそうと思っている。こっちは自分らしい音楽に対する試行錯誤だ。色々新しいことにも挑戦しようかと思っている。良いものが出来たら売りつけにいくので皆さん是非買ってください。