なぜ僕達はゲームをしなくなったのか。

研究室で、なぜ僕達はゲームをしなくなったのかということについてちょっと議論していた。
僕の中高時代の友達なら知っているだろうけど、僕は元々なかなかのゲーマーだった。主に熱を入れてやっていたのはダビスタウイニングイレブンだ。僕と議論していたM君もなかなかなゲーマーだったらしい。
僕らがゲーマーだった頃は、それこそまさに「寝る間も惜しんで」ゲームをしていた。そんな熱烈ゲーマーだった当時の僕らからすれば、10年くらい未来の自分が、全くゲームをしなくなっていることなど想像も及ばない事態だろう。なぜあんなに楽しかったゲームが、今の僕達にとって、たとえ時間があったとしても身を投じる魅力を感じさせるものじゃなくなくなったのだろうか。
単純に言えば、他の趣味や活動に時間を費やすようになったからということになる。でもそこで終わらずに、例えば楽しくないけど生活上必要なのでやっている活動への時間消費が増えたというのを排除して、さらに最近のゲーム自体が面白くなくなった、遣り甲斐がなくなったというのも排除した上で内面的変化について考えてみたい。僕らは学生で未婚だから時間はまだまだ自由にあるし、例えば僕が今中学生だったら、今のゲームにやっぱりハマっているような気がするのだ。
そもそも僕らは、どういうゲームをどういう風に楽しんでいたのか。僕らが中学生くらいの頃から一気に格ゲーブームが始まったけど、僕もM君も格ゲーはそんなにやり込んでない。で、僕がもっぱら手を出していたのがダビスタだった。
アクションやシューティングの場合、プレイヤーの操作技術がゲームクリアの鍵となる。クリアを目論むプレイヤーは、一生懸命ゲーム内で鍛錬を繰り返し、その成果として敵を次々と倒していったりすること、もう少し普遍的に言えば鍛錬成果が課題達成という形で評価されることに快感を見出す。
格ゲーの対戦プレイだとここに偶発性が生じる。自分のプレイが相手にどういう予期を抱かせどういう行為をさせることになるのか、ということについて予期をたてながらプレイすることになる。これは、現実のコミュニケーションと同種類の偶発性だ(ただし実際は格ゲーではほとんど操作技術で勝敗が決するのだけど)。逆にここから操作技術という要素を抜くと、オセロや将棋のようなゲームになる。偶発性と論理的思考に基づいた戦術で勝敗を争う。
シミュレーションでは、ゲーム内の法則を完全に理解し、課題達成に向けたゲームの進行を完全に合理化することが目標となる。例えばダビスタでは、ゲーム内で仄めかされる血統理論を暴く楽しみ(仮説&検証)、それに則って強い馬を作る楽しみ(実践)の二つがプレイヤーの楽しみとなる*1。RPGも、課題達成に向けて論理的にゲームを進行させる。ストーリー性などは少なくとも現段階で映画や小説に適わないと僕は感じているし、話がややこしくなるので、今日は横に置いておく。
つまり、操作技術鍛錬&課題達成、対人プレイでの偶発性、仮説&検証、実践といった楽しみが、テレビゲームには伴っていたということになる。このうち鍛錬&課題達成については、僕は早い段階からそこに楽しみを見出さなくなった。当たり前のことだけど、テレビゲームの操作を向上させたところで、その楽しみは所詮ゲームでしか通用しない。技術を鍛錬するならより広い世界で通用し、しかも出来ればその技術によって更に違う楽しみをも生み出すようなものを鍛錬したいと考えるタイプだったので、アクションやシューティングは小学校卒業くらいからほとんどやらなくなった。技術鍛錬&課題達成は、音楽でも料理でも、完全に代替可能だ。しかもこれらには、向上された技術によって作った作品を味わうことによる別の感動がある。
その後僕が中高時代に感じていた楽しみが、ダビスタにおける仮説&検証→実践だったわけだ。ところがこれも、今となっては全くやらない。なぜか。
ゲーム内は、人間がたかだか数年かけて作った単純な理論に則った、完全に論理的な世界だ。加えて言うなら、完全に論理的であることがプレイヤー全員に知られている世界だ。例えばダビスタでは、血統理論があるということを予め皆が知った上でそれを明らかにしようとし、明らかになった血統理論はいつも必ず適用できるということを知っていながら皆はそれを適用していた。調教による能力向上システムでもそうだ。そのゲーム世界の完全な論理性(への了解)は、或る時期までは「安心を与える地平」だった。合理的に振舞ったものが必ず勝つという、論理ゲーム。合理的であることへの輝きがあった。
ところがその後、一転してその合理性故にそういう論理ゲームが楽しくなくなる。仔馬の能力決定システムが単純な血統理論に完全に則っているが故に、合理化が最後まで進んだ場合には最強馬を作るための血統構成の偏重化が必然的に発生する。そうなるとあとは適用のみになって、何回か適用を繰り返すと面白味が10分の1くらいにまで低下する。誰がやっても同じ結果になる状況では、「ゲームにかけた時間×強い馬が生まれる確率」という勝負になるからだ。しかも発見した法則は、そのゲーム内でしか通用しない。そして他の楽しみを生み出さない。こうなると、アクション等における技術鍛錬がゲーム時間に大きく依存するのと同じような状況になって、一気にシラけてしまう。
これに加えて、発見したゲーム内法則が役に立たない代わりに、論理ゲームの過程で鍛錬した論理的思考能力がゲーム内のみならず現実でも存分に役立つし、その方がより楽しい結果を導き出す、ということに気付くことで、ゲーム熱が急激に冷めてくる。論理的複雑性故にまだ法則が明らかにされていないのみならず、対象が論理的であるかが判り得ない現実。対人プレイの偶発性も、現実の偶発性に完全に含まれる。その中で論理的に振舞ってより良い成果を得ること、あるいは結果そのものに楽しみを見出すようになる。
テレビゲームをしなくなったのは、他の楽しみを現実に見出した訳ではなく、現実というより楽しいゲームに身を投じるようになったからなんじゃなかろうか。テレビゲームをすることによって得られていたのと同じ種類の楽しみ、快感が、より強い形で、論理的複雑さと未規定性を孕んだ現実のゲームによって得られるということに気付いたから、というのが一番しっくりくる答えだ。

*1:ダビスタも最後は自分達で作った馬を対戦させるので、対戦レース時には「強い馬が必ず勝つとは限らない」という意味での偶発性は発生するのだけど、それは結局予めプログラムに仕組まれた偶発性だということを僕らは知っている。複数プレイヤーが操作して対戦する形のゲームに発生する偶発性とは完全に違う。少なくとも僕のダビスタ仲間達は、そんなところに一喜一憂する人間は一人もいなかった。レース前に各馬の数値化された能力に完全に則った評価が競馬新聞で発表されるので、そこで最も評価の高い馬を作る、というのが皆の目標だった。