科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏―科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻作者: 冨田恭彦出版社/メーカー: ナカニシヤ出版発売日: 1997/01メディア: 単行本 クリック: 9回この商品を含むブログ (9件) を見る

勉強する傍ら色々な本に手を出し始めた予備校時代、予備校の先生に紹介してもらった本。奇しくも著者はその時の僕の志望校である京都大学の教授。無事入学できたら絶対にこの教授の講義を取ろうと心に決めたものだった。
本書は、科学哲学の入門的な内容の理解を、対話形式を取っている話の流れとともに徐々に深めていく小説のような解説書のような本である。著者そのものとも言える柏木達彦なる大学教授が、知り合いの教授や学生を相手に近年の科学哲学についてわかりやすく説明してくれる。この柏木達彦シリーズは他に春、秋、冬、番外編の計五冊に渡っているが、それぞれで一応完結する形を取っているために、一冊だけ読んでも十分に面白い。
この「夏」の内容について言うと、まず第一話の冒頭で柏木達彦はトーマス・クーンの「パラダイム論」を天動説から地動説への変遷の絡みから解説し、そこから著者の好きな言語学者ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインからドナルド・デイヴィドソンへと受け継がれる議論を用いて概念相対主義とそれに対する批判についての説明を繰り広げる。特にデイヴィドソンに関する箇所には力が入っており、登場人物の学生らが幾度と無く質問してそれに柏木が答えることで、学生の理解が深まるとともに読者の理解をも確実に深めていってくれる。
ちなみに、僕は京大に入学してすぐに富田恭彦氏の講義とゼミをとったが、ここのゼミはデイヴィドソンの議論についての理解を深める良い内容だった。この本をそのまま講義にしたような雰囲気だった。おそらく、このゼミで学生から出た質問や意見も、本書に出てくる学生達の発言に取り入れられているのだろう。
さて第二話では、柏木達彦が大学で講義をするという形で先入見や解釈学的循環の解説をしてくれるのだが、そこで用いられる例はなんと桃太郎の話である。桃の外見やお婆さんの服装などに関する理解を我々がどのように得ているのかという問題について、著者独特の軽いユーモアを交えながらゆっくり話を深めていく。ちなみに、この講義は著者が京大で実際に受け持つ「科学論・科学史」の内容とほぼ同じものであり、柏木達彦と著者が余りにも似ているために実際に講義を受けていると何度かニヤリとさせられた。
第三話以降ではここから発展させて、観察の理論負荷性論理実証主義、鏡的人間観などの解説を繰り広げる。総じて「世界理解」に関連するこれらの議論は、本来であればかなり難解なものにもなり易いはずであるが、依然として分かりやすい話の流れで、読者を決して置いてけぼりにはしない。そして最後に話は、現代アメリカ哲学の雄リチャード・ローティへと辿り着く。
ローティについてはいずれ他の所で書くことにするが、ローティの議論はまさに今我々にとって必要不可欠なものではないかと最近特に実感する。我々の社会システムは日を追うごとに複合化し、役割が多岐に渡るがために、なかなかその底にある流れを見て理解することが難しくなっている。誰の目にも明らかなように、アメリカのネオコン的な外交政策は、これを利用してその「底」を深く深くすることでこれをアメリカ国民の目から遠ざける。ネオコンに限らず、近年のアメリカンスタンダードなグローバリズムの流れは、結局弱者からの搾取によって力の一極集中状態を形成し、通信路・電送路・流通路を独占・寡占することで他の進入を一切許さないような恐るべき世界を構築しつつある。
ローティは、我々の作り出す共同体は常に不完全であり、それがゆえに常に反論の余地を持たせることの重要性を訴える。反論のためには、システム底部を支える方向付けの構造がある程度広く明示される環境の整備が必要だ。それ故に、国家や社会の今後についての鍵を握るような知識の共有が重要となる。僕が志す環境問題もそこに含まれると考えて良いと思う。
この本が、「理解」に関する思考を深めてくれることは間違いない。そしてそれによって社会のあり方についての思考の手助けとなるだろう。体裁は中学生や高校生向けの本のようで、僕もいずれバイト先の教え子にも進めたいと思っているが、今までこういう方面にあまり興味を持たなかった大学生・社会人にとっての入門書としてもこの上なく、十分に考えさせられる内容であるはずだ。