丸激トークオンデマンド第193回「ゆとり教育は間違っていたのか」のまとめと感想

学力低下を補強材料とした今のゆとり教育批判が完全に的外れ、という点から出発した中盤の議論は全く僕の賛同するところ。時代が変わればそれに適応する教養としての学力が変わるということは少し考えれば誰でも分かることであり、違う時代の学力を同じペーパーテストで測ること自体もはや何を考えているのか分からない。そもそも社会が成熟化し、学問の動機付けを担保してくれる共通認識が薄らいでいく中で、ペーパーテスト的学力平均が堕ちていくのは自然な現象。学力向上を目指さない人間達にとって適合的な環境を作ったという点で、ゆとり教育は半分成功していると言える、と宮台は言う。全くその通りだ。実際、自らの意思で学校の勉強をやめたり、それをソコソコにして別のことをやっている子供達は人生を楽しんでいる。あとで勉強したいと思い直したときの為の教育機関も増えている。
ゲストの寺脇研氏(文化庁文化部長)は経験学習が動機付けを与えると主張した。共通認識がある時代には系統的学習でぐんぐん学力が伸びるが、これがなくなった現在は経験的学習へ移行すべきだと言う。経験的学習が、動機付けのための多様な材料を与えてくれ、しかもその動機を強くしてくれるという彼の論は的を得ていると思う。
家庭教師をやっていて一番感じるのが、親は本当に子供に勉強させるべきだと考え、子供は本当に自分のために勉強していると感じているのだろうかという疑問。宮台はこれを「家庭内のロールを演じている」と指摘した。なるほど、言いえて妙だ。或いは社会的ロールとも言えるかもしれない。よく分からないまま子供は勉強するべしと思い込んで勉強を強要し、背景も考えずに学力低下を煽る人間達。やってて楽しいのだろうか。僕はそういう構造が家庭教師先で見られた場合、とりあえずなぜ勉強しなければいけないかを考えさせる。それで生徒が勉強なんてしないという選択をすればそれで良い。
宮台がもう一つ提示した教育批判の背景は、デュルケームのいう「アノミー」に対する埋め合わせであるという。つまり、学級崩壊や援助交際などで煽られた不安の産物である。これは宮台が最近至る所で言っている、アノミーの埋め合わせによる共同体主義的風潮と関連するのだろう。共同体主義的な発想は、男女役割はもちろん、親子の役割を重視する。この役割が、先に言ったロールとして形骸化し残存しているのかもしれない。80年代後半から90年代にブルセラ援助交際のフィールドワーク研究で名を馳せた宮台だけに言葉が重く感じた。
これからの教育に要求されるのは、選別と動機付けであると思う。すなわち自分がどういう人間になりどういう人生を送るのかと思考し判断してそこに進むのを保証するツールを社会が提供しなければならない。しかしながら宮台の言うように、その最後のファクター、つまり「学力向上の動機付けを獲得し上を志向する人間に対する教育」が今は十分に成されているとは言えない。宮台は、断念とリスペクト、そしてリセット・リトライがこれから要求されると論じる。努力しても超えられない壁を感じ、その道を断念するがゆえにその道を進んだ者に対して素直にリスペクトできる。強いてはそれがいわゆる「向き・不向き」ということだ。負けを悟らせなければいけないのだ。ではどうするべきか。宮台は直接は言及しなかったが、彼に即して言うならば、強固なる動機付けの後の勉強により養われた教養こそが、他を圧倒するような力強いものとなるということだろう。逆に言えば、不確かな動機により遂行される学習は、才能の差があっても容易に努力で埋め合わせられるがゆえに、「負けたはずの人間が執念深くそのゲームにしがみつく」から「『今度は俺があそこに』といつまでも思う」のだろう。
もう少し掘り下げる。どんどん肥大するアノミーは、人々を「自分は入れ替え可能な人間」と認識可能な状態にする。宮台はこれを「終わりなき日常」と表現して、オウムのような体験的宗教に陥るのでもなく、共同体主義的価値観で埋め合わせるのでもなく、「薄ぼけた自分を抱えたまま生きろ」(『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)ちくま文庫)と主張したが、上で述べたような断念・リスペクトを提供しうるような教育は、これのもう一つの処方箋になるのではないか。
現在のもう一つの問題点に関して、宮台は「結局いままでのゆとり教育では、誰も強固たる動機付けを得ようとしなかった」と指摘する。それゆえに、最近自信の受け持つゼミの運営が難しくなっているのだと言う。これに対して寺脇は「教育要領は変わったが学校が変わっていなかったのが原因。だから2002年に構造をも変えることになった」という。結局現場にまでゆとり教育の理念が伝わっていない、また伝わるような構造になっていなかったのが原因と言えよう。
左翼の人間は三浦朱門氏の「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」という発言に猛反発している(京大でも幾度と無くビラが撒かれた)が、こんな発言は勘違い者のタワゴトである。こういう人間のせいで本質的な議論がまともに出来てない、或いはあったとしても国民の目に触れていないのが現状。左翼も「向き不向き」をいつまでも差別だ階層だと騒ぎ立てるのをやめてもう少しちゃんと議論してほしいもの。