音楽雑思。

「わかる人だけわかれ」という確信犯的にターゲットを絞った戦略ではなく、今のように曲製作と宣伝に莫大なコストをつぎ込むが故に殆ど無限のマーケットを対象とせざるを得ない展開では、「出来るだけたくさんの人がわかるような音楽」を作らなければ儲からない。「出来るだけたくさんの人がわかる音楽」は、往々にして「聴いていてハッとするところがなく、ある意味どうでもいい音楽」になる。当たり前である。テレビも同じ、新聞も同じ。すべてのコンテンツがマクドナルドのハンバーガーのように、「確かにまあおいしいけどさりとて大した味でもない」ものになる。
ただしマクドナルドと音楽・新聞・テレビとが決定的に違うところは、それが消費者に届くまでに経る経路の違いにある。料理屋は道を歩いていればいくらでもある。音楽は、流通会社を通らなければ基本的には聴けない。新聞やテレビにも同様な機能を果たすものがある。だからマクドナルドが日本中を席巻してつまらない食べ物ばかりになるかといえば、そうはならない。それと比べて音楽業界は相対的にマクドナル度が高くなりやすい。日本の新聞やテレビはMAXに近い。
流通会社は全国的にネットワークを持つほうが合理的であり、そのネットワークをフルに生かすためにコンテンツ制作にまで合理化を迫る。無味無臭なヒットチャートはこのようにして生み出される。これが今の音楽業界の状況である気がする。
しかも更に音楽業界にとって運の悪かったことに、多くの日本人にとっては音楽は単なる娯楽の1つであり、(それが差異化であれ流行志向であれ)自分の個性を明示するためのコミュニケーションツールの1つだった。製作者がイメージを音楽に託してリスナーに伝え、リスナーがそれを受け取ってフィードバックするという形式の音楽スタイルは、近代西洋的なもので、多分それほど日本には定着していなかったんではないだろうか。カラオケの普及によって、90年代に一気にその様相は増した。
しかもそれは、彼らにとっては他のツールと入れ替え可能なものであって、娯楽の多様化が進むにつれて当然音楽を選ぶ人間は少なくなった。ましてやレンタルや中古、コピーによって安価で手に入るのだから、もはやその程度の価値としか思われていないCDに、3000円以上も金を払う人間が少なくなるのも無理はない。それよりもマクドナル度が低いはずのマクドナルドのハンバーガーの価格を見ていればよく分かる。
つまり音楽が合理的になればなるほど入れ替え可能になり、最終的には自滅の方向へ向かうと思われる。利益をある限度を越えて大きくしようとすればするほど、と言い換えてもいい。
合理的な音楽がどうなろうと僕の知ったこっちゃないのだが、僕にとって音楽は不可換なものである以上、味や臭いのある音楽がなくなることだけは避けたい。最終的には、これをターゲットの1つとするような、最近流行りの言葉で言えば「地域密着型」を音楽に応用した形のやり方じゃないと生き残れない気がする。
では「音楽的な地域密着型」とはどんなもので、それを実現する為にはどうしたらいいのか。音楽的地域は、物理的ないわゆる地域とは違う分布を持っていて、流通における地理的な制約はインターネットによって解消できるようになった、というのがミソになりそう。
この続きは、また考えておきます。。。