「改憲」のジレンマ。

丸激の感想。ただし書きなぐり。
途中までは、条件付きとはいえ改憲派宮台真司護憲派土井たか子の議論は、最近の丸激では見られないくらいの白熱ぶりを呈しつつあった。宮台が改憲の流れを説くそぶりを見せると、土井はすぐさまこれに異を唱え、全く立場が異なるかのように見えた。久しぶりに、宮台がかつて「相手を負かすための論争」をしていた時のような目も見せた。
しかしコミュニケーションを重ねるにつれて、その根拠となる現状認識及び将来の日本の有りようについての考えは、実はほぼ一致しているのではないかという流れになる。
宮台は、今の憲法は歴然とした違憲行為に対して全く歯止めの役割を果たしていないので、より効力を発揮しうるような形の歯止めを明示した憲法に変えるべきだと主張した。これに対して土井は、たとえ憲法を変えた所で今の様子だと歯止めをかけられる期待は持てない、むしろ憲法を変える前に外交政策やらで成すべきことがある、という意見だった。その上で二人とも、それぞれの方法が将来のマルチラテラルな枠組みの中での国家の構築へ繋がる、というのだ。ここで「土井=断固護憲護持」という、僕を含む多くの人が持っていたイメージが覆された。
ここから更に話を進めるにあたり、神保哲生の司会ぶりは実に見事だった。彼のお陰で、宮台と土井がかなり同じことを考えているのは分かった、じゃあどこでこの結論部分の違いが起きたのか、に焦点が完全に絞られた。
結局は二人とも、自らの言論が持つ機能性を踏まえたうえで「改憲」もしくは「護憲」を唱えていて、その機能に対する認識が違うことが明らかになった。
宮台は、「護憲」にはこれまで一部の人々が日本で振りまいてきた負のイメージがつきまとうので、「護憲」vs「改憲」という図式では多くの国民が真剣な議論に身を入れる契機を与えられない、だから敢えて「改憲」一色にすることで各改憲案を国民が比較でき、国民的な議論を巻き起こすことが出来るというネタ晴らしをした。これに対して土井は、今のように世論が容易にマスコミの誘導などによって一方に流れる状況では、「改憲」を(特に「護憲の本丸たる土井」が)唱えると、アメリカ追従を唱える勢力の力であらぬ方向に改憲される蓋然性が高い、だから今は憲法にまで手を出すべきではない、という考えを持っているようだった。
この「『改憲』のジレンマ」とも言える問題は、なかなか解決を見ることが出来ないのは間違いない。宮台のやり方は現実的であるとも取れる一方で、土井が危惧するように大きなリスクを背負うものであるからだ。もし「護憲」vs「改憲」という図式の中に宮台の主張が押し込められてしまったら、そこに待つものは。
ただ二人とも国民的な深い議論を起こすための方法を模索している様子だった。宮台は「ロビーイング以外の政治へのコミットメントはほぼ有り得ない」として、ここのところはめっきりテレビに出なくなった。でも憲法論議になれば話は別のはずだ。多分今年以降は宮台の露出が多くなるだろうな。