ピレネーヒグマ射殺に見る環境倫理

ピレネー原産のヒグマ亜種のメスを猟師が撃ち殺してしまったそうな。http://www.asahi.com/international/update/1108/008.html 朝日の言う「うっかり」の意味が分からないのはいいとして、テレビでは何も考えずに「難しい問題ですね」と浅いコメントで締めくくっていますが一体何が難しい問題なのか。
わが京都大学文学部倫理学の名誉教授である加藤尚武氏は『環境倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)の中で人間の自然利用の目的を四段階に分類し、「種の保護のために人間の個体が犠牲となる可能性」(或いは「人間の個体生存のために種が絶滅する可能性」)についての考察を巡らしている。四つとはすなわち、趣味や贅沢のための利用、生活のための利用、個人の生存のための利用、人類の存続のための利用であり、仮にその自然利用が生物種の存続に関わる場合、現在の世界世論で禁止すべきだとされているのは大まかに言って二つ目と三つ目の間であるとしている。そしてこのような世論が不確定な状況下で人類がまず課題としなければならないのは、人間個体の命か種の保護かといった、当面の間とても結論が見出せないような「あれか、これか」論突入の回避であると著者は主張している。
今回のこのヒグマの問題は猟師の入山の目的こそ狩猟であるが、ヒグマを撃ち殺すに至った理由はこのヒグマが猟犬を襲おうとしているという状況からの脱却願望によるものであり、厳密には「自然利用」には当たらないし、人間個体の命もかかっていない。しかし重要なのはこの出来事がまさしく「あれか、これか」論を生み出し得るという事実である。更に言えば、この問題に関連して議論する場合「襲われたのが猟師本人だったら」という状況可換的な態度をとることが肝要である。このヒグマが保護対象動物であるということを猟師が知っていたかなどは問題ではない。「目の前で猟犬が襲われる」という緊迫した状況に際しそのような考慮を入れる暇などあるわけがない。ましてや自分が襲われそうな場合には何をか言わん。天秤にかける二つの事象の重さが天秤の可能積載量を超越している状態である。
猟師の行動の是非を問う前に、現場では選択の余地がないのに後に「あれか、これか」論を起こし得るような状況を放置していたことの是非を論ずべき。仮に「あれか、これか」論議が決着したとしても現場での行動は何一つ変わらないからである。このような状況の蓋然性を可能な限り低下させる努力が大事。
加藤氏も指摘しているが、欧米における生物種に対する認識の重さは、進化論が構築される遥か以前に「種の誕生」という偶発性を神に帰属したキリスト教の精神に遡るものがあるし、我々のような無神論者であっても、その複雑な進化過程による不可逆性・再生不可能性や、生物情報集積体・有用遺伝子資源としての未来利用の可能性という立場からも大いに尊重・保護すべきものである。当該個体に名前まで付けて保護を訴えかけておきながら、今回のような事態が起こるリスクを踏まえた上で立入禁止などの対処法を取らなかったのは行政の政策によるものなのだから、この上なく分かりやすい結果が出た以上潔く責任を取るべきである。
テロリストが蜘蛛の子散らした状態になるのが自明な状況でこれを説明しないどこぞの政府も同じ。